前へという話

1. 「前へ」という話
なかなか「前へ」物事は進まないのですが、前に行くことが何より大切という話をしたいと思います。
親しくさせていただいている順天堂学大学院教授の白澤卓二教授からお聞きした話です。
白澤教授が、冒険家の三浦雄一郎さん、その息子さんの豪太さん、娘さんの恵美里さん、それにエベレストを目指したことのあるプロの登山家たちといっしょに富士登山をしたときのことです。
三浦雄一郎さんがエベレストを目指すことになり、そのトレーニングを兼ねていましたが、白澤教授もサポートスタッフのひとり、医師として高度が人にどんな影響を与えるか調べるために参加していました。心臓病の持病を抱えた雄一郎さんを診るためでもあったようです。
8合目についたあたり、高さは3100メートル。白澤教授自身の心臓が限界に達しました。心拍数が130に達し、それが下がりません。心臓がもうこれ以上がんばれないという状態になってしまったのです。
白澤教授はもともと高所に弱い体質で、高所に体を徐々に慣れさせるようにゆっくり時間をかけて登っていました。いっしょに登った人たちも、教授に合わせて登ってくれていました。
しかし、白澤教授は医師として、自分の脈拍を測りながら、もうダメだな、登頂はあきらめようと思ったときに、
『先生、休んでいるときも足を前後に置いてください』
と豪太さんにいわれました。
足をそろえずに、前後にしておく。からだは動いていませんが、体勢は山を登っている感じになります。
足をそろえてしまうと、本当にそこに止まってしまいます。休むのだったら、同じだと思いますが、豪太さんは違うというのです。
足を前後にして置くことが大切なのだそうです。足を前後にしておけば、次にゆっくりでも、少しでも前に足を出すことができれば、からだも前に行きます。まさに遅々とした歩みですが、少しずつ少しずつ前に進んでいきます。
前へ、前へ行く。これが重要なのです。
そのために、休んでいるときも足をそろえず前後に開いて置きなさいというのです。
この足を前後にして休むことは、三浦敬三さんがしていました。三浦敬三さんは、三浦雄一郎さんのお父様で、100歳を超えてもスキーをしていたという人です。しかも、自活していたといいますから、すごい。
豪太さんが敬三さんといっしょに、アフリカのキリマンジャロに登ったときに、敬三さんから教わりました。キリマンジャロは山頂に雪があってスキーができるのだそうです。
休むときは、リュックを下ろし、どかっと腰を下ろしたいところですが、そうせずに休むときもリュックは下ろさず、しかも足を前後にしておく。じつは、登山では5分から10分程度の短い休息を小休止といいますが、このときは、リュックは下ろしません。リュックは背負ったまま、岩などにもたれかかったりして休みます。呼吸を整えるのが目的です。食事などをとる大休止のときは、リュックを下ろして座って休みます。
敬三さんは小休止のときにも、リュックはもちろん背負ったままですが、足を前後にして休んでいたいのです。一見すれば動いていないから休んでいるのですが、姿勢は前に進むようにしている。
そして、白澤教授も豪太さんにいわれ、敬三さんと同じように足を前後に置いて休むようにしました。少し休んでから、足を少し前に持っていくようにしました。
本当にわずかですが、前に進むことができ、最終的に富士山を登頂できました。
医学的にいえば、これ以上が登山を続けることはできない状態と白澤教授はいいます。しかし、人間のからだは医学的な常識を超えていきます。医学、科学はわたしたちのからだのすべてを解明したわけではありません。
このとき、精神力をまさに実感したと白澤教授もいっていました。
このことを伝えたのは、敬三さんでした。敬三さんがスキーから学んだことをお孫さんの豪太さんが継承しているのです。
苦しいときに役立つこと、それを敬三さんがお孫さんに教えていました。
ここでも変わらぬものが、ものをいいました。


2. 前へ行くことのもう一つの意味
 キリマンジャロに登ったとき、豪太さんは11歳。頂上に行くと白いゾウがいるから、騙されて登ったといっていましたが、そのときに祖父の敬三さんにいわれたことがいまでも生きているのです。
そして、その姿勢は三浦家全員に伝っています。
常に前へ。
止まってはいけない。
ゆっくりでいいから前に行く。
休んでいるときも、足を前後にして前に行く体勢をとっておく。
「富士山の8合目で低酸素のために、足が動かない状態になったのですが、この体勢をとり、わずかでも動いていれば、気がついたら頂上なんです」といわれて、本当に少しずつ少しずつ足を動かして、頂上にたどり着いたのです。
じつは、8合目についたとき、富士山の頂上が見えました。あともう少しと思ったときに、心拍数が上がり、動けない状態になったと教授はいいます。
そのとき、頂上を見てはいけない、前進することだけを考えて、といわれました。
「前に行くことだけを考えて、気がついたら頂上なんです」
何も考えず、目の前を見て進んでいくと、気がついたら頂上。頂上を目指して、というと何か格好いいのですが、地道に目前の道を黙々と歩んでいくことが大切なんですね。
これが山登りの極意です。
三浦敬三さんは、それこそ毎日地道なトレーニングをしていました。そのトレーニングの積み重ねが、スキーをするときに自然と役に立っていることをご存じでした。
目の前のことを淡々とやり続ける。
そのうちに頂上、つまり目標は達成できる。このことをいいたかったのです。


この話は、『老いに克つ百寿の生き方』KKベストセラーズ発行)という本で紹介されています。
いままでの白澤教授の本と少し異なり、なんのために長生きするのかということが大きなテーマになっています。もちろん、生涯現役で元気に生きるための方法も紹介されています。
前へ、というのはたいへん重要なメッセージと思います。
これが、100歳を過ぎてもスキーをしていた三浦敬三さんから発せられたということが、非常に意味があります。
いくつになっても現役でいるコツが、この「前へ」ではないでしょうか。
高齢者は、過去を振り返ることが多いと考えていましたが、本当に長生きする人は違うのです。