エンディング医療のコスト

「最後の1カ月間の延命治療はやめませんか?」――。文芸誌「文学界」(1月号)に掲載された若手論客の対談が、ネットなどで波紋を広げました。財政危機の中で終末期医療にはお金がかかっている、との認識があったようですが、実際はどうなのでしょう。また、人生の最後を「コスト」で語ることを、どのように考えたらよいのでしょうか。(高橋健次郎)

命が「従」に違和感/安易な回答求める風潮

「文学界」では「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」と題し、メディアアーティストの落合陽一氏(31)と、社会学者で著書が「芥川賞」の候補にもなった古市憲寿氏(34)が対談した。

超高齢社会を話題にする中で、古市氏は「お金がかかっているのは終末期医療」としたうえで、「胃ろうを作ったり、ベッドでただ眠ったり、その1カ月は必要ないんじゃないですか、と。順番を追って説明すれば大したことない話のはず」と語った。落合氏は「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですけどね」と述べた。

こうしたやりとりに対し、ネット上では「人間を『数』か『コスト』としてしか見ていない」などの批判の声があった。落合氏はその後、「延命治療を保険適用外に」の発言などについて、「反省し撤回」を表明した。朝日新聞が両氏にコメントを求めたところ、落合氏側はスケジュールの過密を理由に回答は難しいと説明。古市氏からは、公表を前提にしたコメントはなかった。

「お金が『主』で、命が『従』という考え方ではないか。違和感があった」。相模原市のパートの女性(54)は、そんな気持ちで対談を読んだ。

夫(64)は5年前、進行性の若年性アルツハイマー認知症と診断された。症状が進むと、体をうまく動かせず、人工的に栄養を送る「胃ろう」が選択肢になることもある。夫は健脚で、今でも週に数回10キロ走る。それでも、記憶障害があらわになってきた。「稀勢の里、引退するんだって」。ニュースを見るたび、繰り返す。「終末期」の意思を尋ねても、返答はない。

対談で古市氏は、胃ろうに触れている。女性は夫の意思を推察し、延命のために胃ろうを作ることはしないつもりだ。それでも、夫の親族の意向次第ではわからない。

女性は夫との「最後の1カ月」について、「どんな状態でも、『別れ』に向けた準備期間にしたい。夫と過ごしてきた時間を家族で共有し、ゴールに向かいたい。家族の新たなスタートのためにも」と話す。かつて、スキーで国体に出場した。息子が病気がちだった時、心配しても仕方がないとあまり気に掛けてはくれなかった――。夫の人柄や子育て時の不満も、3人の息子と語り合いたいという。

オウム真理教事件などの取材で知られるジャーナリストの江川紹子さんの父親は、入院先で誤嚥(ごえん)性肺炎になった。意識不明になり、入院から1カ月と10日で亡くなった。85歳。「『最後の1カ月』はあくまで結果。前もってはわからない」と話す。

江川さんは「終末期」と「お金」が結びつけられる背景には、「コスト」や「生産性」など経済活動に関わる言葉で物事を評価する見方が浸透していることがあると指摘。「安易で早い回答を求める風潮と、経済用語はなじみがよいのだろう。だが、それが、人の命にまで及ぶことに危機感がある。命の切り捨てにつながる」と語る。「自分が病気になったり、年を重ねたりすることに考えが及んでいない。想像力が貧困になっているのです」

亡くなる1カ月前の医療費「全体の3%程度」

落合氏、古市氏が対談で語ったように、「終末期」の医療には、お金がかかっているのだろうか。

対談では繰り返し財政危機が説かれ、古市氏は「お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の1カ月」と述べた。2013年1月には、麻生太郎財務相が「さっさと死ねるようにしてもらうとか、考えないといけない」「(自分の延命治療が)政府のお金でやってもらっているなんて思うと、ますます寝覚めが悪い」と発言した。

政府の社会保障国民会議で委員を務めた権丈善一・慶応大教授(社会保障・経済政策)は「エビデンス(証拠)に基づかない『ポピュリズム医療政策』の一環」と語る。「亡くなる1カ月前の医療費は、全体の3%程度だというエビデンスがあることは、この問題に関わる人は知っている。(元気で)急に亡くなる人も含まれるので、実際はもっと少ない。そもそも、『最後の1カ月』は予測がつかない」

終末期の医療については、「コスト」ではなく、「本人の意思」を尊重する方向性が明確になっている。病院での終末期の延命治療中止をめぐり、社会問題化したことなどを受け、厚生労働省が07年にまとめたガイドラインでは、本人の意思に基づくことを基本に、医療チームや家族も加わり治療方針を判断するとした。昨年3月に改定されたガイドラインでは、認知症や病気の進行で意思を確認できないこともあるため、前もって繰り返し話し合いを重ねることを推奨している。

この記事を読んだときに、同じような内容ものを取り上げたことを思い出した。

わたしは、アドバンスケアプランニングといったのだが、自分がどのような治療を受けたいのか、医師などに伝えておくことが重要だ。

しかし、これはあくまで個人が行うものであり、誰かが指導して行うものだろうかという不安はある。

とくに医療従事者が行うと、医療を前もって縮小させておくような印象がある。

行政担当者が行うこともに同じように抵抗はある。

自宅で死にたいと本を書いたときに、これと同じような質問が頭に浮かび、それに対する対応案を記しておいた。

こうした書類が必要になるのは、70歳を過ぎてから。また、何か病気を背負ったときなどだが、コストを語るべきものではなく、人生を生きるものして考えるものである。

何より重要なことは、本人に意志である.

最期をどのように迎えるか、それに対する意識の低さを高齢者に感じることがある。

漠然と、なんとくなく長生きできるのではないかと思っていないだろうか。

自戒を込めて。