透析医療をやめるということ。

最近のニュースで気になったのは、公立福生病院で行われたとされている透析中止です。わたし自身が透析患者なので、より切実な問題と感じます。

わたしは腹膜透析という自宅でする透析を行っていますが、毎月主治医の診察を受けるために病院の透析室に入ります。そのときに血液透析を受けている人たちを目にしますが、週34回、1回に45時間ベッドに拘束されているのは結構つらいものだろうなと思います。

治療を続けることで受ける苦痛から逃れたいという気持ちは誰でもあるはずです。そんなときに、「透析中止という選択もありますよ」といわれたら、「やめたい」と思うかもしれません。それが患者の本音でしょう。患者の意思は尊重されるべきです。しかし、「では、透析は中止しましょう」では、医師は医療者として最善を尽くしたといえるでしょうか。

かつては患者は医師にお任せで、治療法は医師が決めるものでした、しかし、いまは

どういう治療を受けるか、受けないかは患者自身が決められる時代になりました。それだけに患者自身の選択が大きな意味を持つようになったのです。

今回のニュースのように、血液透析を中止するあるいは血液透析を受けないという選択をすることによって死を選択したことになってしまったのです。

 

インフォームドコンセントという言葉はいまは常識で、どんな病気でも、医師は患者に病気の内容や治療方法をわかりやすく伝え、治療については患者の意思を尊重するのが当たり前になりました。それはとても良いことなのですが、実際、患者になってみると、患者が自分で決定することのはたいへんむずかしい。つくづく感じます。

わたしの場合でも、腹膜透析にするか血液透析にするか、がんとわかったときに抗がん剤治療を行うか、放射線治療を受けるか、あるいは治療せずに経過の道を選ぶか、選択を迫られました。

人よりは医療知識があると自負している私でも、自分で決断するとなると悩みます。どんなに丁寧に説明されたとしても、患者は医療のプロではないので判断はむずかしい。インフォームドコンセントだけでは足りないのです。

いま、注目されているのが、「シェアード・ディシジョン・メイキング」というものです。患者は医療者に自分が医療に求めるもの、自分が大事にしたいことを話し、医療者は医療のプロとして患者が求めるものに最も近いものを探し、いっしょに最善の選択は何かを考えるというものです。

いっしょにくり返しますが最善策を探すというのがポイントになります。

最善策は、いったいどんなものになるでしょうか。

今回の事件では、患者に選択が丸投げされていたのではないかと思います。医師は医療のプロとして、患者が判断を間違えないように、治療方法について丁寧に説明し、患者にとって何が最善かを考えたのかということが問われるのではないでしょうか。