田んぼの足音

南アルプスも望めます。

月の水 ごくごく飲んで 稲を刈る(本宮哲郎)


稲刈りをしているときに、いつも思い浮かべる句である。稲はバインダーという機械で刈るのだが、束ねられた稲をわたしが住んでいるところではウシというが、稲架にかけていく。天日干しにするためだが、のどがたいへん渇く。乾いた稲束をさわっているからかもしれない。
今年の稲刈りは、北アルプス八ヶ岳をいっしょに登った友人たちが手伝ってくれ、作業が早くすんだが、いつもはふたりでやるので時間が結構かかる。刈った稲を田んぼに倒したままにして置きたくないので、その日のうちにウシにかけてしまいたい。するとだんだんと夕闇が迫ってくる。出てきた月を見ながら作業をしたことはないが、実感にあふれた句である。作者は、農業をしていると聞く。


田植えのために種もみを植え付ける作業をし、ほんの少し芽が出てきたら、これを田んぼに移し、早苗に仕上げ、田植えをする。田植えが終わったら、時期を見計らって草取りをする。そして稲の生長を見ながら、田んぼの水を毎日調整する。
種もみの植え付けから約6カ月で収穫だが、水の量などを見るために、毎日田んぼに行かなければならない。畑の野菜は、足音で育つと聞いた。野菜の生育具合、害虫の有無などを知るために、毎日せっせと畑に百姓は足を運ぶ。そうした行き届いた思いや行為が野菜を育てるというのである。田んぼの稲も同じだろう。


わたしたちの生活は便利な工業製品であふれている。工業製品の多くは、1時間に何百、場合によっては何千という数でできあがる。インスタント食品や冷凍食品も同じように大量につくられ、大量に消費されている。


こうした製品には、「足音」があるだろうか。
見上げる月はあるだろうか。


稲刈りをしながら、こんなことを考えている。