がんといわれて

わたしは『自宅で死にたい』という本を書きましたが、自分の死については現実ではありませんでした。
いずれ自分もこの世を去るわけですが、それは実感できません。
もっとも死そのものについて誰も知りません。
死を語るということは、
死に逝くものに寄り添い、なんとなくこんなものだろうと想像するだけです。


そして、自宅で亡くなるということは、日常生活の延長に死があることを意味します。
また、それを実感します。これは病院で亡くなるのとは違います。
身近なものの死は、わたしにいろいろ教えてくれました。
それを書いたわけです。


しかし、今回自分ががんといわれたとき、死は現実のものとなりました。
もちろん、がん=死ではありません。
がんを克服した人もたくさんいます。
ふたりにひとりはがんになる時代です。がんは誰もがかかる病気です。珍しい病気でもありません。
でも、がんといわれたとき、死を意識しました。
がんは、自分ではコントロールできません。
いまの医療にも限界があります。


やはりがんはがんです。
がんはやはり怖い病気です。


がんといわれたとき、なぜか世間がすーっと遠のいていきました。
世の中の流れに興味を失いました。
そして、自分の殻に閉じこもるような感じにとらわれました。
独特の孤独感といっていいでしょう。
誰にも共有してもらえない感覚です。
わかってもらえない、わかるはずがない、孤立感。
そして自分では何もできない。
何ともいえない切なさとはがゆさ。


死はあくまでも自分のもの、
と思ってしまったのです。


そんなとき、周囲を見渡すと、がんといわれたわたしをみている家族がいる。
考えてみれば、死を共有できないにしても、いずれ訪れる喪失感は想像ができます。
自分とまったく同じではないが、強い思いや恐怖心を抱いているはず。
当座はそのことすら気が付かない。
ようやくそこまできて気づき、周囲が見えてきました。
まずかみさんであり、子どもたちであり、それからわたしにかかわってくれている人たち。
再び世間が見えてきました。


しかし、見えてきた世間はいままで知っていたものと少し違うような気もします。
がんになって、新しい世界が見えてくるという人もいます。
それは、人生の終わりを意識することで、いままでとは違った世界が見えるということかもしれません。
わたしはまだそこまでいっていませんが、何かが変わったという印象だけはあります。
訪れる毎日が新鮮なものに見えてきたのです。
もっといろいろ知らなければならないことがあるんですね。