春は一瞬の蘇生のとき

「どの季節でもない、早春の気配を聴く頃だけに、一種鮮烈な感情が胸をよぎるのはなぜだろう。
去りゆく冬と一緒に、振り返ることのできない過ぎ来しを、いっきょに断ち切るような断念と、
いかなる未来か、わかりようもない心の原野に押し出されるような一瞬が、冬と春の間に訪れる。
それはたぶん、かりそめの蘇生のときかもしれない」(石牟礼道子著『食べごしらえ おままごと』より)


これは、平松洋子さんが週刊文春のコラム「この味」で紹介されていた石牟礼さんの著作の一節だが、
まさに、いまのわたしがこんな時期にある。


年末にがんの手術を受け、徐々に日常を取り戻しつつあるが、まだまだ以前のようにウォーキングもできない。
わたしの病気を知った人から、「春になれば〜」という励ましの言葉をいただいたが、春になって蘇生が叶えば、
以前のように、歩くこともできるはず。
いまは、じっと我慢のときか。



大杉漣さんが亡くなった。
さまざまな人を演じ、300の顔を持つといわれた。
300はオーバーとしても、人はさまざまな「顔」を持つ。
それぞれの顔はすべて自分。
そんなことをテーマに話したいと思っているのだが、まとまらない。



自分は他人のどんな「顔」を見ているのか。
ほかの顔は見えていないのではないか。


じっと考えている。