帰るところはどこだろう

90歳を過ぎた義父といっしょに暮した。
義父はごく軽いと思われるが、年齢なりに認知症になっていた。


東京の家は、義父がはなれた後、義理の姉夫婦も去り、無人となっていた。
義父は、それこそ身の回りのものだけを持って我が家にやってきたので、必要なものを取りに帰った。
東京への車の中で、「帰る」と聞いた義父は、
はるか昔に出て行った兵庫県の田舎の家に帰るのかといった。
東京で何十年と暮らし、人生のほとんどを過ごした場所に帰るのではなく、
子どものころに過ごした家に帰るのだと思ったようだ。


じつは、認知症の進んできた老人にとって、「帰るところ」ははるか昔の場所であることが多い。
義父の場合、東京での生活は人生のほとんどであったはずなのに、
そこでの記憶がなくなり、子どものころの記憶だけが鮮明に残っているのだ。
東京の家で、いろいろ持っていくものを調べていくうちに、
ここでの生活を思い出したようだが、人の記憶とはいったい何を指すのだろうと思った。


中島京子の『長いお別れ』を読んだ。
日本医療小説大賞の受賞作ということで、読んでみようと思った。
彼女の小説は『小さいおうち』『眺望絶佳』などを読んだことがある。
微妙な日常生活をくみ取るのがたいへんうまい作家と思っている。
『長いお別れ』は、認知症になった父親、その配偶者、娘三人の物語。
認知症になった父が自ら語ることはできないから、娘たちの母親である妻、子どもたちの視線で描かれる。
認知症は徐々に進んでいくのだが、その過程で巻き起こる家庭内の出来事が淡々と記されていくが、それはきわめてリアルで、認知症を患っている家族と暮らしたことがある方なら、「あるある」というに違いない。


「帰る」という言葉をその父親がよくいう。そして、その帰るところが、必ずしもいままで生活して場所ではない。それがつらい。
いっしょに暮らしてきた生活が失われている。
前にも述べたが「帰るところ」は、生まれた場所であったり、かつて青春時代を過ごした場所であったり、仕事場であったりするが、いまの場所ではないのだ。


ふと自分が帰りたいところがどこだろうと考えてみた。
その答えは、いま住んでいるところだ。
昔に帰りたいとは思わない。
いま暮らしている場所が大切だと思っているから。
思い出はあくまでも思い出である。
それはわたしたちがいまを生きているから。
しかし、認知症になると、短期記憶が失われていくという。
長期記憶が残るようだが、まだわからないことが多い。
わたしにとって「帰るところ」は変わるのだろうか。
それはいったいどこだ。