昔、雑誌の編集長をしていたころ

 10年ひとむかし、ですから、もう完全にひとむかしの話。雑誌の編集長をしていたころ。編集部でつくっている雑誌をすべて隅から隅まで読んでいるのは編集長だけで、担当者は担当ページしか読んでいないことが多く、よく読者から質問がくると担当がいないのでわかりませんと答えていた。
 しかし、質問の内容によっては、よく読んでいれば答えられるものも多く、担当ページ以外も必ず読むようにと編集部員にいっていた。他人が担当したページを読むという習慣をつけるために、編集長に校了用のゲラを持ってくる前に、自分以外ほかの編集部員に読んでももらい、サインをしてもらうことという約束をつくったことがあった。

 実は、昨日稲刈りの第2弾を行ったのだが、その合間に師匠からショックな話を聞いた。
 それは、農家は自分のつくっているお米を食べていないというのだ。
 田んぼで稲刈りをし、天日干しをすべく、稲架掛けをしている農家では、天日干しが終わったら、それを脱穀し、精米して食べる。これが新米だ。
 ところが、稲架掛けをしない農家では、コンバインを使い、稲から実をはずす。まだ、籾殻がついているお米を、ライスセンターというところに持っていき、乾燥してもらう。ライスセンターにあちこちの農家からお米が持ち込まれるから、それをいちいち○○家の分として分けることをしない。まぜこぜになってしまうのである。
 丹誠込めてつくったお米も、農薬も使ってざっくりとつくったお米もまぜこぜになってしまうのである。
 つまり、自分のつくったものすら食べないのがいま農業なのである。これではいいお米、おいしいお米ができるのだろうか。
 田んぼの隅にわずかに稲架を建て、天日干しをしているのを見かけるが、あれは自家用にわざわざ天日干しにして、おいしいお米をつくっているんだ、と思っていたら、あれは自分がつくったお米を食べるためにしていることで、そうしなければ、今年のお米のできもわからない。もちろん、自家用以外に親戚に配ったりするのだろうが。
 自らつくったものを食す。これが当然のことではなくなっている。恐ろしい。