会話力というのがある

 義父の家で正月を過ごした。義父と話そうと思っているのだが、なかなか話すことが見つからない。政治のこと、経済のこと、日本の行く末、さらに家族の有り様など、話すことはたくさんあるはずなのに、義父が何かいう前に、いうことがわかっている。新しい観点はないし、それに伴う発見もない。ついお互い黙ってしまう。別に黙っていることが苦痛ではないので、それはそれでいいのだが。
 息子、娘たちも加わり、当然いろいろな話に花が咲く。義父は話しに加わらない。加われないのだ。姉夫婦といっしょにくらしているのだが、食事もひとり、自分の部屋で1日のほとんどを過ごし、誰とも話をしないらしい。年齢もあるが、会話というキャッチボールを日ごろからしていないために、話せなくなっている。
 人の話に耳を傾け、自分の意見を重ね、さまざまな結論に持っていく。こうした会話する力は、ふだんの生活から生まれる。
 義父は、文字が読めなくなったといいながら、毎日新聞を読んでいる。岩波新書も相変わらず、赤いボールペンを持って読んでいる。知識がどのくらいはいっているのかはわからないが、インプットは十分に行われている。しかし、アウトプットがない。これが致命的なようだ。
 正月に義父と会い、会話力の重要性をしみじみ感じた。