記憶の回廊
その扉を開けると、回廊が続いていた。回廊を進むと、扉がいくつも並んでいる。
10歳の扉、ものごころがついたころの扉、青春の扉、母や父の思い出の扉、祖父祖母の思い出の扉などなど、いくつもの扉がある。ちょっとのぞいてみたい扉もあるが、開けたくない扉もある。
回廊にはいくつも扉がある。
義父と話していると、年寄りは昔のことは良く覚えているといわれるとおり、本当に昔のことは鮮明に覚えている。
こうした記憶はどのように積み重なっていくのか。また、一方でどのように捨てられていくのか。
記憶をコントロールしているのは大脳にある海馬。海馬の細胞は、歳を重ねてもふえることがわかった。必要な記憶と不必要な記憶を選り分け、不必要な記憶は捨てることができるとも聞いた。
そして、長寿者ほど、不必要な記憶を捨て去ることができるという。嫌なことはさっさと忘れる能力とでもいおうか。
それにしても、捨て去ることのできない記憶とは、どんなものなのだろう。
たとえば、昔の記憶は、それほど重要なものだろうか。これがよくわからない。
シベリア抑留を体験してきた義父に、FM八ヶ岳の終戦特集で出てもらい、シベリアの体験を語ってもらおうと企画している。義父から、シベリア抑留の話を毎日少しずつ聞いている。まさに想像を絶する。
極限状態とは、こういうことをいうのだろう。
思わず、義父の記憶の回廊に足を踏み入れてしまったようだ。