栗を拾いながら

 今年はわが家の栗もたくさんなって、屋根にこつんと落ちてくる。先日、友人たちがくるので、栗拾いをして、カミさんに栗が入った黒米のおむすびを作ってもらった。ちょっと薄い紫がかった黒米のおむすびに黄色の栗がよく映える。味はもちろん、色合いも楽しめた。
 そのとき、アーティストの友人と話した。現代アートを作っているので、日本ではなかなか認められない。知り合いになったフランス人が、彼の作品に感動して、フランスにおいでといわれたようだ。フランスでは、現代アートに関心が高く、彼の作品なら充分いけるだろうという。現代アートは、とくに日本では評価が低く、値段も安いので、香港や韓国の美術商がたくさん買っていく。
 じつは、彼と少し前から話題にしているテーマがある。それは棺桶。棺桶をアートにできないかと思っている。日本では、棺桶は遺体を入れるただの箱だが、その棺桶をその人の人生や作り手の思いを合わせて、アートにできないだろうか。
 もちろん生前につくる。できあがった棺桶は、いかにもその人の人生があり、見る人にもそれは感じさせ、また、アートとして存在する。そんな棺桶である。
 棺桶、つまり死。自らの死をどのように表現するか。そんなことができたら、楽しいではないか。
 アスファルトに落ちた栗の実は、車にひかれて粉々になってしまう。庭に落ちて栗の実は、リスなどのエサになったり、わたしたちの食卓に登場したり、多くは土に埋もれて、もう一度木になろうとする。
 死は、なくなってしまうことではない。棺桶は、それを現すツールになる。