人生の終着駅

 いったいどこにあるのだろう。
 昨年の暮れから、一気に衰えた義父。食事はかろうじてひとりでできるが、ベッドから起きることも、着替えも入浴も、カミさんの介護なしではできなくなった。
 なんとかできることは自分でやろうとして、パジャマは脱いだはいいが、着替えることができず、上半身裸でベッドの中から、義理の姉の名を呼んでいる。ちなみにカミさんは二女。長年暮らした長女の名前をすぐに思い出すらしい。カミさんが、「わたしは○○で、□□じゃないからね」というと、あ、そうという感じ。
 何も考えずに、本能のように動いていれば、ベッドから起きることもできるが、いざ意識して起きようとするとできない。椅子に座ることすらおぼつかない。
 この突然の衰えを、わたしたちもなかなか認めることができず、どうしたんだろう、と思うばかり。
 94歳という年齢を考えれば、いままで散歩をしたり、絵を描いたり、本を読んだりしていること自体が、奇跡だったのかもしれない。
 本当に94歳になったのだと思う。
 日常の動作ができなくなったのは、認知症が進んでいるからだろう。
 昨年の暮れ、わたしに、「面倒をかけますが、よろしくお願いします」としみじみ語ったのが、普通に会話をした最後なのか。
 義父を見ていると、心ここにあらずという印象で、ぼーっとしている。
 尊厳死協会に入り、以前から延命措置をしないといっていたが、そんな命に関わる病気もなく、ただただ生きている。
 人は誰でも死ぬ。
 しかし、死を受け入れることもできなくなり、生き続けることは、非常に無惨な気がしてならない。
 終着駅にたどりつき、家族、家族でなくても、いろいろな人々に見送られ、別れを告げる。これもむずかしくなっているような気がする。どうすればいいのだろうか。
 そんな思いにとらわれ、死について考えてしまう毎日である。