10以上の数

 井上ひさしさんが、だいぶ前の話だが、オーストラリアの原住民アボリジニーの言葉に感心して、あるエッセイを書かれていた。
 それは、アボリジニーは数を数えるときに、10までしか数えないという。10以上はたくさんというらしい。羊を数えていても、10匹までは数えるが、それ以上はたくさん。
 しかし、砂漠にある湧き水の場所や川には、すべて名前が付いていて、どんな小さな湧き水も名前で呼ぶのだそうだ。
 まさに生活に必要なものが言葉になっていると感心しておられた。
 砂漠で暮らすアボリジニーにとって、湧き水は生きるうえで非常に重要である。しかし、牛や羊といった家畜は、自分たちの生活に必要な範囲でいえば、10頭もいれば十分で、それ以上はたくさんという表現で足りるということか。
 言葉は、このようにして生まれるのか。言葉のある側面に、わたしも感心した。
 最近、池沢夏樹さんが南アメリカの南端でヤガン族の最後のひとりという女性にあったと書いている。このヤガン族の言葉は、動詞が多く、ある動詞は「運びやすいように鳥を首や足で束ねて縛る」という意味がある。ひとつの動詞がこれだけの意味を持っていると、用語集がいらない。
 ひとつの言葉がなんの疑問もなく、間違いなく伝わる。これも言葉のひとつのあり方だ。
 わたしも言葉を操るひとりとして、言葉について考えさせられた。

 10以上の数、わたしにとってもたくさんかな。
 固有名詞でいえるものをどのくらい持っているかな。
 きちんと伝えられる言葉をどのくらい持っているかな。

 さて、さて。