義父を送って1年

 送るには、「遠いところに何かを届ける、また月日を過ごす」という意味がある。
 まさに、「送る」だった。
 カミさんは、長い一年だったという。
 わたしも同じだが、1年前のことなのに、はるか遠くの昔のような気もする。
 94歳という年齢を、わずか1年いっしょに暮らしただけだが、ずいぶんと感じられた。
 歳をかさねることによってかもし出される重み。
 それは、尊重に値する一方で、つらいことでもあっただろう。
 老いることは、誰にでも起こることだが、老いの時間が長いのはつらい。
 長生きする人は、何らかのテーマを持っているという。生きがいといってもいい。日々なすことがあるから、長生きができる。
 義父は亡くなる少し前に、「もう絵は描けない、本も読めない」といっていた。
 何もしないで、漫然と生きることをよしとしなかった義父にとって、絵が描けなくなった、本が読めなくなったのは、日々なすことを失ったのと同じだったのだろう。
 生きがいを失った日々は、義父にとって生きる価値がなかったのかもしれない。
 そんな言葉をつぶやいた数日後に、遠いところに旅立っていった。
 いいかえれば、それまで生きたということ。
 ご飯ですよ、と呼んでも、気付かずに夢中になって絵を描いていた義父の姿を思い出す。
 93歳まで、そうしていられた。
 思えば、すごい。
 早1年が経った。