認知症は家族の責任(?)

4月24日。名古屋高裁で、認知症による徘徊で電車にはねられ、死亡した患者の家族に対し、JR東海が列車遅延などによる損害賠償訴訟を起こした控訴審の判決があった。
2013年の8月の一審では、720万円の賠償金が認められ、遺族に対し、支払うように命じられたが、遺族側が控訴していた。
今回、一審に引き続き、男性の妻の責任を認めたうえで、約360万円の賠償を命じた。一審では、長男にも責任があるとしていたが、それが変更され、金額も減額された。
事件の内容を少し説明しておくと、2007年12月7日夕刻、91歳の認知症の男性が、愛知県大府市JR東海道線・共和駅で線路内に立ち入り、快速列車にはねられ、死亡した。電車の運転手が男性を発見し、ブレーキをかけたが間に合わなかったという。自殺の可能性もあるとされたが、線路に侵入した経緯はわからなかった。
線路に侵入し、電車にはねられた男性は、常に介護が必要とされる認知症患者だった。妻は85歳と高齢で、別居しているが長男も監督者であるとされ、ふたりに過失責任があるとされたのである。
自宅で妻と長男の嫁が介護をしていたが、ふたりが目を離したすきに外に出ていき、電車にはねられた。
裁判所は、介護ヘルパーをつけることができたはずなどとして、前期のように賠償を認めたのだが、これにいろいろ反論も出ている。
家族だけで、四六時中ずっと見守り、目を離さないというわけにはいかないし、介護ヘルパーを24時間雇うとなれば、利用料金に差があるとしてもかなりのお金がかかる。
認知症という病気に対する責任を、家族だけに背負わせていいのだろうか。


認知症は誰もがかかる可能性のある病気である。
日本では、患者だけでなく、患者家族に対する施策が十分とはいえない。
日本より高齢化がまだ進んでいないイギリスで、認知症に対し、国をあげて予防や治療を行おうというプロジェクトが進んでいる。このプロジェクトの目的のひとつに、認知症といわれたら、以下の項目に「イエス」といえるような環境をつくろうというものがある。


1わたしは早期に認知症の診断を受けた
2わたしは認知症について理解し、将来についての意思決定の機会を得ている
3わたしの認知症、およびわたしの人生にとって最善の治療と支援が受けられている
4わたしの周囲の人々、わたしのケアをしている人々が十分なサポートを受けている
5わたしは尊厳と敬意を持って治療されている
6わたしはわたし自身を助ける術と周囲の誰が支援してくれるかを知っている
7わたしは生活(人生)を楽しむことができる
8わたしはコミュニティの一員であると感じ、何かコミュニティにお返しをしたいと思う
9わたしは自身の人生の終わりに関する願いが尊重されると確信し、良き死を期待できる


日本は、これらの項目にイエスといえるような状況になっているだろうか。
家族に大きな負担をかけてはいないだろうか。


今回の裁判は、急速に高齢化社会になった日本に住む、わたしたちにとって、非常に重要な裁判なのである。