幻となったあとがき

吉田松陰といえば、誰もが知っている幕末の英雄である。
彼は、安政の大獄と呼ばれる幕府の弾圧によって、斬罪されている。安政の大獄では、ほかには橋本佐内なども斬罪。謹慎、隠居を申し渡された藩主も多く、一橋慶喜もそのひとり。安政の大獄は幕末を象徴する大きな事件だった。そして、尊王攘夷派の多くが斬罪されているが、吉田松陰はその最後のひとりだったという。
吉田松陰が獄中でつづり、門下生に送った決別の書、『留魂録』がある。『留魂録』は一日で書きあげられ、松陰はその翌日に斬罪されている。
『留魂録』は、遺書文学の傑作といわれている。松下村塾の門下生に送るものだけに自らの思いを伝えることに尽くしているが、死に直面した人間が一体何を考えるのかを知るうえでも読んでおきたい。
わたしが手にした『留魂録』（全訳注古川薫・講談社学術文庫）は、直木賞作家の古川薫さんが訳注したもので、そのなかで、彼の友人でがんの末期で闘病をしている人に『留魂録』を勧めたところ、非常に勇気づけられたという感謝の言葉が紹介されている。
誰もが迎える死について考えるときに、指針となるだろう。
松陰は３０歳で亡くなるのだが、その若さでしかも志なかば逝くことの無念さを記していくわけだが、いちばんの圧巻は、「今日死を決するの安心の四時の順環に於て得る所あり」ではじまる一節だ。
古川さんの訳でその一部を紹介しておこう。
「人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳で死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある」
何歳で亡くなろうと、人生の四季はすでに備わっている。花を咲かせ、実もつけているはずである、と。
死に逝く年齢が重要ではない。何歳で亡くなったとしても、その生には実りがあるというわけだ。死を迎えることで、その人の四季、つまり人生は完成するのだ。この言葉はたいへん勇気づけられる。
この前の記述に、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵するという、農業の四季が書かれている。そして、収穫を喜ぶだけでなく、その年の労働が終わったのを悲しむものはいないと続く。正確に引くと「労働が終わったのを悲しみ者がいるということを聞いたことがない」とある。はじめて読んだときに、この文章の意味がよくとらえられなかった。労働が終わったことを喜ぶのはわかるが、悲しむものがいるということを聞いたことがない、という表現にどんな意味があるのか。
農事なら、来年も同じように種をまき、苗を育て、収穫するという行為は変わらなく続くだろう。しかし、今年の労働はこれで終わったが、そして実りがあった、と表現するだけでいいはずだ。
「労働が終わったのを悲しむものがいない」とは、つまり労働が終わりいま死んだとしても悲しむことはない、つまり充実した生を送ったという実感だけは必ずあるはずだといっているのではないか。
吉田松陰は、三十歳で生を終わろうとしているが、いまだ一つも成し遂げることなく、と『留魂録』をあるが、このまま死ぬのだが、自分が生きてきた生を農事にたとえ、収穫期はすでにきているし、わたしは自らの人生の実りを楽しんだといっているのだ。
死にあたり、自らの生を肯定する。こうした姿勢が大切なのだ。
やり残したことがあるはず、伝えきれなかったことがあるはず、思い残したこともあるはずだが、いい人生だったと自ら肯定することが、死を怖いものでなくしてくれる。
いまをしっかり受け止め、受け入れること、これが人生の最後にある「諦念」だが、暗いものではなく、生きてきたという充実である。
人生に悔いはないか、と問われれば、悔いがあって当たり前と開き直ってきたが、それでも人生を肯定する。これが大事なのではないだろうか。
あれもしたかった、これもやらなければならなかった、いろいろなことが浮かんでくる。しかし、いまさら自分の人生をいくら悔やんでも、それは詮なきこと。
十分に生きた、と思い、それを喜ぶがいい。
自らの人生を肯定できれば、死が訪れても怖くない。
『留魂録』はそれを教えてくれている。

以上、『自宅で死にたい』のあとがきである。
原稿枚数が多く、このあとがきは掲載されなかったので、紹介しておきたい。
『自宅で死にたい』http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%AE%85%E3%81%A7%E6%AD%BB%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84-%E8%92%B2%E8%B0%B7%E8%8C%82/dp/486238210X