シジフォスの神話

先日、体操教室に誘われました。体操のように、みなでいっせいにからだを動かすということが苦手で、というよりみんなでいっしょに何かをやるということ自体がとても嫌いなので、体操も好きではないのですが、仕事の上でも役立つことがあるはず、といわれ、しぶしぶ行ってきました。
すると、意外や意外、体操そのものもおもしろく、やりたくないわたしも思わずやってしまいました。
指導をしてくれた運動療法の専門家がよかったのと、参加した人たちに「自分たちが学ぼう」という意識が強く、まわりの人にほとんど注意を払わなかったこともよかった。
わたしの不器用さも、笑われることなく、実に気持ちよく体操ができました。からだが軽くなり、みなといっしょでなければ、体操がいいものだと実感しました。
で、お昼休みの休憩のときに、知り合いの理学療法士の方がじつに興味深い話をしてくれました。


シジフォスの神話という話をご存じと思いますが、神の怒りにふれたシジフォスが、大きな岩を山の頂上まで押し上げると、岩はガラガラと落ちていき、また、その岩を山頂まで押し上げなければならない宿命を負わされるという話です。

まあ、なんとたいへんなことをくり返さなければならないのか。


彼いわく、掃除も同じようなものではないか。いくら掃除をしてもいずれは汚れてしまう。掃除をしても掃除をしても、汚れてしまう。
落ち葉が舞い散るシーズンになると、これはよくわかります。ベランダをはいてはいても落ち葉が舞い落ちてきて、落ち葉でいっぱいになってしまいます。落ち葉がすべて落ちてしまえば、落ち葉掃きというシジフォスの宿命は終わるわけですが。


患者さんのために、いくら理学療法をがんばっても、患者さん自身が努力をしてくれなければ、元に戻ってしまう。


そこで、彼は、昨日より今日が少しでもよくなることを目的にしているといいます。自分の足で歩けるようになるとか、いろいろ高い目標を設定するけど、大事なのは、昨日より今日がいい、今日より明日がいいと思えるようにしたいといいます。
生きているものはすべて死にます。死に向かって生きているわけで、大きな石を一生懸命山頂に押し上げても、それは必ず落ちていくように。
だから、無駄というわけではない。
大きな石を押し上げ、また、落ちていく石を見つめることで、昨日より違う今日がやってきているのだ、と。
いや、なかなか興味深い話だった。


自著『自宅で死にたい』をよろしく。