死ぬ場所は選べるが、死ぬときは選べない

この話を聞いたとき、わたしは彼女と覚悟について話していた。
覚悟、それは「人は死ぬ」ということ。
しかし、ひとりで死ぬわけではない。


葉室麟の『蜩ノ記』の最後に近い場面を思い出して紹介していた。



江戸時代より昔、賜死(しし)という制度があった。死を賜ることだが、通常の死刑より温情がある措置といわれ、取り調べなどによって、名誉を傷つけられたりすることを防ぐとともに、連座も防ぐためにあったという。
蜩ノ記』の主人公が見守る戸田秋谷は、10年間という猶予が与えられているが、まさに賜死という状態にあった。
この間にさまざまなことが起こるのだが、最終場面近くに、自らの死を迎えようとして、秋谷は、僧侶に問われ、
「もはや、この世に未練はござりませぬ」
と答える。
すると、僧侶は、
「未練がないと申すは、この世に残る者の心を気遣う(きづうこ)てはおらぬと言っておるに等しい。この世をいとおしい、去りとうない、と
思うて逝かねば、残された者が生き暮れよう」
と諭す。そして、なま悟りといわれる。


この話をしているとき、彼女が、
「わたしは同じ思いをしました」
と話しはじめたのである。



死の覚悟をしていても、それはなま悟りかもしれない。
いや、その覚悟のほとんどはなま悟りだろう。
覚悟などはいらないという友人もいる。


いくら覚悟をもっていたとしても、自死は別にして、自らの死を選ぶことはむずかしい。
『自宅で死にたい』という本を書いたが、死ぬ場所は選ぶことができるといいたい。
しかし、死ぬときは選べない。
ここが重要である。
だから、自らの死を覚悟しておくことが必要ではないだろうかという思いで書いたのだが。

覚悟をしても、そのときとなったらどうなるか、わからない。(続く)