いま生きている、わたしは。

不意に訪れる死もある。


予想すらできない死もある。わたしの親戚で、からだにも自信があり、健康診断でも異常も見られず、こういう人は長生きするだろうと思われていた方が、船上であっけなく逝ってしまった。
残された家族は、その死を受け入れることができなかった。


奥さんが日ごろから懇意にしている女医さんに会ったとき、
「自分だけが生き残って、こうして毎日を送っていることに納得がいかないのでしょう。
でも、あなたが元気に生きることをご主人がいちばん望んでいることなの」
といわれた。

もっといろいろ話しておきたかった、いっしょにいる時間を大切にしたかった、と思うが、それがままにならない。
不安ではあるが、これからはひとりで生きていかなければならない。

そんな不安をかかえていたとき、
「あなたが元気に、これまでと同じように明るく元気に、しっかり生きていることを見ている。元気なあなたを見ていたいと思っている」
といわれたら、ほっとする。
自分を振り返って、「これでいいのだ」と思える。



いまをしっかり生きている自分を、それが亡くなったご主人のいちばん願っていることなのだと。
このような死の受け止め方を示唆してくれたのだ。



人からいわれて気づくこともある。

愛する人の死を通して、いまを生きることを知り、死そのものも知ることになる。

死を悟ることもあるだろうか。
それは自分だけが納得しているものでないか、家族、周囲の人たちもわかっていてくれるだろうか。


正岡子規は、
「わたしはいままで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということはいかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということはいかなる場合でも平気で生きていることであった」(『病状六尺』より現代語訳)
死を考えつづけ、死を見つづけ、文章を書くことが生きることだった子規が、死を受け入れる最期の心境を綴ったもの。
今日も生きている、しかも平気に。
(続く)