自己責任といわれても

膀胱憩室が原因で、尿が逆流し、腎臓が萎縮してしまい、もうすぐ透析をいわれているわたし。


「自業自得の人口透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を滅ぼすだけだ!!」
怠けものだから透析を受けるようになったのだ。自業自得だ、というようなブログを書いて、失職したフリーアナウンサーがいる。


まず、透析を受けている患者にしても、じつにさまざまな事情があり、それを一概に切って捨てるような口調には驚いた。
人前で話すことが仕事なら、話す内容を含め、口調にも十分注意をしなければならないだろう。それはブログでも同様だ。


こうしたブログを支持する人もいるらしい。
その背景に、病気にかかるのは自己責任だ、自業自得というような風潮がある。
しかし、誰もが病気になる。
いくら健康に気をつけていても、病気になる。
歳をとるということもこれと同じ。


健康でなければいけないのだろうか。
歳をとってはいけないのだろうか


病人、老人、障害のある人、こうした弱者を受けていれ、ともに生きることが現代社会のテーマのはず。
いつからか、弱者を切り捨てるような状況が生まれつつある。



かつて、93歳の義父と暮らしていたが、高齢者が多いクリニックには行きたくないといっていた。
住まいからかなりはなれていたが、新しく開業したクリニックに義父を連れていったところ、ここはいいといっていた。
お年寄りもいるが、若い人もお子さんも多く、明るい雰囲気のクリニックだった。
そこが気にいったのだろう。
定期的に診察してもらい、どこも悪いところがないといわれて喜んでいた。
前立腺肥大でおしっこが近いこともあって診てもらっていたのだが、ほかに病気らしい病気はなかった。


高齢者が高齢者を嫌う。
それは、自分は『クリニックにいる高齢者とは違う、もっと若いのだ』ということをいいたかったのだろう。
こうした意識が誰にでもある。



人と違うという意識は認められる。
が、そこに相手を見下すようなことが加われば、差別につながっていく。


かつて成人病といった、高血圧、糖尿病、高脂血症などを、生活習慣病といい変えることになった。
これらの病気が成人だけでなく、若者に見られ、その人の生活習慣が、呼び込む病気だから、というのが理由である。
病気になるような生活習慣をそのままつづけるのは、その人の責任だから、自分で何とかしなさいといわれているような気もする。


生活習慣病も、その人自身の問題にすべて転化していいだろうか。
以前、生活習慣病といい方に多少の異議を唱えていたのは、知り合いの糖尿病の専門医の方だった。
糖尿病は、生活習慣病の典型のようにいわれるが、社会が変化し、その変化に対応できず、糖尿病を発症する人もいるはず。
生活習慣病というなら、患者さんの悪い生活習慣を改め、いい習慣をつけるためにどうすべきかを提案しなければいけないといっていた。
その医師は、患者さんの話を徹底的に聴き、何ができるかを探り、患者さんといっしょになってできることを見つけていこうとしていた。
これがなければ、生活習慣病と言葉をいい替えた責任を果たすことにならない。
もちろん、自身の努力も必要だが。