まだ田んぼに入っているの

田植え、草取り、そして稲刈り。
通算すると年間でおよそ1ヵ月弱だが、友人の田んぼを手伝っている。こちらに越してきて、1年ほどたったときから手伝っているので、今年で10年になる。
稲作がはじまってから、およそ2500年といわれているから、稲作が行われてきた回数は2500回。大量生産、大量消費が当たり前になった時代にあって、2500回しか行われていないと思うと、たとえ10回でもたいへん貴重な経験をしているという少し厳粛な気になる。


ほんのわずかな経験だが、友人の田んぼは完全無農薬なので、それは自然と直接対話することになる。


田植えをする前に、昨年とっておいた種もみを10日ほど水に浸し、最後に少し暖かいお湯につけて、発芽を促す。それを縦14、横32の穴がずらりと並んだ種もみポットにまいていく。このときの種もみを見ると、ぽちっと白い芽を見ることがある。ひげのようなものがついているがこれは野毛といって芽ではない。
ポットの穴にいれる種もみは3粒から4粒が適しているので、機械でまかれた種もみの数を確認する。少ないものは加え、多いものは減らす。
わたしたちが扱うこのポットの枚数は144枚。田んぼは1反5畝を超えるものから、もう少し小さいものもあって、全部で5枚ある。


自分たちを刈り入れした稲を保存し、それを種もみにして、さらに田んぼに苗代を作り、田植えをしているのは、わたしたちだけになった。
ほとんどの農家は、農協などがハウスで育てている苗を買い、乗用の田植え機で田植えをしている。


わたしたちの田植え機は、動力はついているが、2条植えのもので、田んぼの中を人が押していき、田植えをする。さらに、補植といってポットで育たなかった株があるので、そこに苗を差し込んで植えていく。もちろん手作業だ。
田植えが終わり、田んぼに草が生えてくる。おもにコナギという水田の雑草である。これを田車という回転する爪がついた歯車を押して、コナギを根こそぎする。根が起こされ、水面に浮かんだコナギは2、3日で枯死する。稲と稲の間、縦に並んだ稲の間を条間、横の隙間を株間という。条間、株間に生えてくる雑草をとる。株の上下、左右から雑草を取り除く。草取りは結構たいへん。こうした作業をしている農家もわずか、ほとんどの農家が除草剤を使い、雑草が生えないようにしている。


そして、日々の気温を感じながら、田んぼの水位を加減していく。寒さから稲を守るために田んぼに深く水を入れる。水は熱しにくく冷めにくいという特徴があるので、本格的な夏に入るまで、夜の気温が下がるので水を深く入れる。こういうことを水見というたいへん大切な作業だ。これを朝晩行うが、田んぼの近くに住んでいなければできないし、経験も重要。これは友人をしている。
こうした作業をして、ようやく収穫のときがくる。稲刈りだ。わたしたちは天日干しをするので、稲の束を稲架かけする。


わたしたちは田んぼに足を入るのは当然のこと。
しかし、ほとんどの農家で、この「田んぼに足を入る」ことをしなくなっている。
まず、苗代を田んぼで作らない、田植えは乗用、つまり機械に座ったままで苗を植えるのは機械任せ、稲刈りもコンバインを使えば、稲を刈り、脱穀し、さらに残った稲はバラバラに細かく砕いて田んぼにまいてくれるので、まったく「田んぼには入らない」ですべての作業が終わる。
苗代を作り、苗取りをしていたとき、近くで同じように田んぼをやっている人がやってきて、「まだ、田んぼに入っているのか」といった。
昔は、その人も子どものころは田んぼに入り、苗取りをし、田植えをしていてはず。わたしたちの苗を見て、しみじみ「いい苗だね」といったことからも、かつては田んぼに苗代を作り、苗を育てていたのだろう。
農業の機械化が進み、農家の人は田んぼに入らなくなった。
機械化が進んだおかげで、高齢者でも稲作はできるようになった。
しかし、それだけ自然から遠ざかってはいないだろうか。
稲刈りのお昼は、皆で集まって畔に座り、食事をとる。そんなことをしているのは、わたしたちだけ。


草取りで田んぼに足を入れると、様々な水生昆虫に出会う。ミズカマキリ、アメンボ、ホウネンエビカブトエビなどなど、カブトエビは生きている化石といわれているもので、すべての田んぼにいるわけではない。
こうした生き物に直接ふれることができる。
生きているものにさわることが、これは自然と対する、対話することだ。
田んぼは自然環境の保全に役に立っているといわれるが、確かに田植えが終わった田んぼをみるとその美しさに目を見張る、たわわに実り、頭を垂れている稲穂を見ると自然の力も感じる。見ているだけでは自然と接することにはならない。
確かに自然環境である。しかし、それを支えている人たちは、意外と自然に接してはいないことを感じる。