宝物

娘が女の子を出産した。
赤ちゃんを抱いたのは久し振りのこと。
そもそも赤ちゃんを目にすること自体も珍しくなった。
わたしの住んでいる地域の特性もあるが、高齢者を見かけない日はないが、赤ちゃんは滅多なことではお目にかかれない。
そんなことが当たり前になってきている。
これはこれで大きな問題ではある。


さて、わたしたちの世代は、いまの人たちと違って、育メンなどという言葉もなかったし、もちろんする人もいなかった。
わたしも正直にいって、育児には参加した経験はない。
最初の子どもが生まれたとき、銀行員をやめ、健康雑誌の編集部に入ったばかり、新しい仕事に慣れようと必死だったし、なにしろ忙しかった。
育児だけでなく、子育てにも参加しなかった。
育児や子育てはカミさんの仕事と思っていた。
その割には、しっかり勉強しているかは気になり、よくカミさんにいってましたね。
ふたり目のときは、別の単行本を主に出している出版社に移ったときで、雑誌とは違う仕事に、人間関係に慣れようとしていた。
ひとり目のときと同じように、仕事を変えたときだった。
そんな事情があったのだが。


しかし、いまにして思うと、もっと育児には参加したほうがよかった。
そう思ったのは、娘の赤ちゃんに会ったとき。
赤ちゃんはあまりにも無防備というか親の手助けなしには、命を永らえることができない。
ひとりでは生きていけない。
それを身をもって教えてくれる。
親の力だけはなく、さまざまな人の力を、求めている。
全身で。
食事、排泄、衛生といった生きるための術、環境や生活を快適に保つための術を他者に委託せざるを得ない。
それを実感させる。
赤ちゃんが泣いているのを見ていると、まさにそれを感じさせる。
そして、忘れては決していけないことだが、
自分もかつてその一人だったのである。
ひとりで生きてきたわけではない。
当たり前のことなのだが、それを忘れてはいないだろうか。


そして、もうひとつ大切なことを赤ちゃんは問うているような気がする。
少し飛躍するが、なんのために仕事をしているのか。
それを考えさせてくれる。
答えはいうまでもない、この子のために働いている。
子どものためと考えると、変なことはできない。
少なくとも子どもに見せられないような仕事はできない。
また、子どもたちが安心して暮らせる世の中になるように、力を注ぐ。
しかし、団塊の世代の、それ以前の多くの男たちは、仕事そのものに夢中になり、
先ほど述べた何のために働いているのかという自問を忘れた。
それを忘れ、仕事に邁進してしまった。
大げさにいうと、その結果、日本は経済大国、悪くいえば、エコノミックアニマルになってしまった。
その結果、得たものもあるが、失ったものも多くある。


命。
この抽象的なものが、実態をもって目の前にある。
育児にかかわることで、学ぶのはもっといろいろあるはず。
これは、男にも必要なことと思った。


赤ちゃんは未来である。
未来そのものである。
そして、未来はいまとつながっている。
いまを生きている、わたしたちには未来に対する責任がある。


赤ちゃんはじつにいろいろ教えてくれるな。
考えさせてくれる。


赤ちゃんはやはり宝だ。