不健全な肉体

健全な肉体に健全な精神が宿る、といわれます。
しかし、もともとは「人間が神に願うのは、健全な精神と健全な肉体である」というものだそうです。
健康な体、健全な精神を大切にしようという程度でした。
「宿る」という言葉はありません。


健全な精神は健全な肉体に宿るといいだしたのは誰かは知りませんが、
宿るという言葉が入ったおかげで、だいぶ誤った方向に私たちを導かれたような気がします。
そもそも健康でなければ、健全な精神は生まれないということはありません。
健康な体と健全な精神はまったく関係ありません。
私は、腹膜透析をしている第一級の障害者です。さらに、がんにもなり、健康な体の持ち主ではありません。
私の精神が病んでいるとは思っていません。


反対に、こうした障害を抱えたことで、見えてきたことがたくさんあります。
いままで何の疑問も持たなかったのですが、たとえば、いまやどこにでもある自動販売機。
取り出し口がほとんど下のほうにあります。
足が不自由で体を曲げることがむずかしい人にとって取り出すのが一苦労です。
しゃがまずに取り出すことができるものもありますが、まだまだ少ない。


これはほんの一例ですが、障害者の目線で見ると、こうだったらいいのにな、ということが結構あります。
かつてアメリカに介護関連商品の国際見本市を取材に行ったとき、ふだんは座ったままの車椅子が、
必要に応じて座面が上がり、立っている人と同じ状態になるものがありました。
これなら、手の届きにくいものも簡単にとることができます。
また、車椅子のタイヤに、マウンテンバイク用のものがついていて、多少の凸凹は乗り越えられようになっています。
人にやさしい道具類がたくさんありました。障害者が健常者とともに暮らせるように、さまざまなものがたくさんあり、ずいぶん工夫されていると感じました。


日本は、まだまだです。
ところで、体に障害がなくても、人は歳をとります。
年齢を重ねるとは、何らかの形で体が不自由になるということです。
障害と無関係ではいられません。
障害者の目線で、物事を思い、考えることが大切と思っています。

9月1日発行の「八ヶ岳ジャーナル」より