闘う医療と寄り添う医療

テレビの再放送の『ドクターX』で、アメリカの女性外科医がかつて研修できていた日本人の外科医を訪ねてくるという内容のものがあった。
その女性外科医は非常に優秀だったのだが、手術中に手がふるえ、患者の命を危険にさらし、訴えられ、医師としての自信を失い、日本にやってきた。
しかし、それには原因があり、脳腫瘍ができていて、脳の運動野が侵されていたからである。
運動野を傷つけずに、手術を行うことはたいへんむずかしく、本人もあきらめていた。
亡くなるまでの3ヵ月を日本でかつての恋人と過ごしたいとやってきたのである。
恋人も外科医で、その手術が困難であることを知り、彼女とともに過ごそうと決意する。
しかし、ドクターXは、彼女の脳の画像を何度も確認し、運動野を傷つけずに、手術ができると主張する。
患者と寄り添うのが医師ではない、患者を治すのが医師だと叫ぶ。
恋人である外科医も、ドクターXならできるかもしれないと、彼女に治療を勧める。
この番組を見ていて、感じたのは、ドクターXは「闘う医療」を真髄としている。
その根拠となるのは、「わたし,失敗しないので」という自信が裏付けになっている。どんな困難な手術でもやり遂げてきたという強い自信と経験。それが、「闘う医療」を支えている。
「わたし、失敗しないので」という自信がなければ、闘う医療を邁進することはむずかしい。
ちなみに、失敗しないのは、準備を怠らないからだ。手術の場面で「術式を変更するということがよく行われる」が、それはあらゆる状況を想定して、さまざまな手術法を研究している証拠である。もちろんテクニックがなければならないが。
医療が進歩を遂げ、治せる病気もふえてきた。しかし、治せない病気はまだまだ多くある。
わたしは、腎臓病といわれ、20年あまりたつ。腎臓の機能がほとんどと機能しなくなり、現在は腹膜透析中。これまで、4人の主治医に診てもらってきた。
そのうちのふたりの医師は、わたしの病状を診て「治せることができなくて申し訳ないです」といわれた。
「治せない」といわれ、わたしは医師への信頼を強くもった。つまり、闘うことはできないが「寄り添っていきます」という意思表示と思った。
何でも治せるわけではない、医学がまだまだ進歩していない、ということを、医師自らが口にすることにわたしは信頼を寄せる。
腎臓病、糖尿病など、いまの医療をもってしても治せない病気にとって必要なのは「闘う医療」ではなく、「寄り添う医療」ではないだろうか。寄り添うとは、患者と同じ目線を持つこと 。
そして「寄り添う医療」が、いちばん必要と思われるのは老化に対してである。
老化は、誰にも防ぐことはできない。
医療スタッフに患者とともに歩んでいく気持ちが見られるとほっとする。
老化と闘ってはいけないと思う。老化を受け入れ、共存しながら、楽しく生きる方法を探る。
いまわたしは、闘う医療ではなく、寄り添う医療を支持する。