いま「養生訓」を

1. 腹八分といったのは
 江戸時代の中期、いまからおよそ300年前、正徳3(1713)年に出版されたのが『養生訓』。著者は、貝原益軒。和綴じの8分冊の本だそうです。わたしは本物を見たことはありませんが。
 この『養生訓』で、誰もが知っていることは、「腹八分」でしょう。腹八分はいまでも十分通用します。食べすぎをいましめていますが、貝原益軒がこの本で述べていることは、腹八分だけでなく、現代でも役立つことがたくさんあります。
 江戸時代は鎖国されていたために、日本人が自らの感性を磨くしかなかった。とくに注目したいのが文化。他国からの影響がないために、いわば独自に日本文化は進化していった。
 そして、江戸時代に生まれた、浮世絵、日本画、陶器や漆器、蒔絵といった工芸品から刀剣まで、まさに、日本の世界が誇る美術品のほとんどは、江戸時代に生まれたといっていいでしょう。
 江戸時代は封建社会ではありましたが、江戸という大都会ではずいぶんと生活がしやすかったようです。江戸っ子は宵越しの銭は持たないといいますが、その日に稼いだお金を使ってしまっても、暮らしていけるということです。
 わたしが知っている範囲でいうと、ものすごく分業というか、ワークシェアが進んでいました。魚屋さんでいうと、たとえば、コハダのような光ものだけ扱う魚屋さんがいたり、隅田川でとれる白魚だけを売っていたり、しかも、魚屋さんが魚を買ってくれた人の台所でさばいていたようです。水を売る人もいました。
 仕事を独占しない、皆で分け合って生きていく。長屋からはじまって町という大きなコミュニティをつくることで、安心して暮らしていけるようにしていたのです。
 江戸は100万人都市だったのですが、同じころロンドンも100万人都市になりますが、ロンドンは下水道も完備していなし、産業革命の結果、空気は汚れていて、汚い都市でした。
 ヨーロッパからきた人が、江戸の街並みを見て、こんなにきれいな都市はないと感想を書いています。それに、ほとんどの日本人は読み書きができましたから、知識のレベルも高かったのです。
 町並みはきれいで掃除が行き届いていて、人々は礼儀正しい。それはきっと感心したと思います。
 明治維新で、江戸時代のものは何もかも捨ててきましたが、失ったものが大きいと思います。もっと江戸時代を評価したいと思っているのですが。

2. 『養生訓』の教え
『養生訓』の冒頭中に、「人の身は父母を本とし、天地を初めとす。天地父母の恵みを受けて生まれ、また養われたるわが身なれば、わが私のものにあらず」とあります。
 自分のからだといえ、「私のもの」ではない。これは、命は授かりものというわけです。そして、続いてその命は天地のたまものだといっています。天地とつながっている。つまり、人、動物、植物とさまざまな「命」とつながっているのです。
 だから、からだをつつしんでよく養い、傷めたり壊したりしないで、天命を長く保つべしとあります。
 腹八分もそうですが、欲にまかせて生きてはいけないといいます。
 よく長生きすることが目的というような人に出会いますが、貝原益軒は、長生きして、人生を楽しもうといっています。人生を楽しむために、養生しようというわけです。
『養生訓』には、「人の命は我にあり、天にあらず」という老子の言葉を紹介していますが、これは、わたしたちの命は天から授かっ たものだが、養生をすれば、生まれついて虚弱であったとしても長生きができるだろうし、反対に丈夫に生まれても養生をしなければ長生きできない。天にあらず、我にありというわけです。
 自分の健康は自分で守る。この覚悟が必要といっているわけですね。

3. 若者文化に対抗する
『養生訓』の時代は、若者が時代の中心にはいません。その代わりに年寄りが社会の中心にいました。
 歳をとっていること、経験が豊富にあることが、たいへん重要でした。もちろん、若くて優秀な人もいましたが、年寄りを非常に敬っていたと思います。
 老という文字ですが、老いる、歳をとる、経験が豊かである、老練、豊かな経験から集団を率いる、補佐するということから、長老、老中、家老という言葉があります。老、つまり歳をとることが、必要なことだったのです。
 老いる、歳をとるというのが悪い、よくない、というのがいまの風潮ですが、江戸時代は違いました。
 年齢を重ねていき、自らの経験や知識から、知恵を与えていく。それが尊敬を呼ぶ。こういう状況があったのです。
 いまは、若者の間からいろいろなものが生まれていきます。パソコンを使ったミクシーというソーシャルネットワークがありますが、それも若者がはじめました。
 とくパソコンを使ったものは、ほとんどが若者によってつくりだされたといってもいいでしょう。
 パソコンがわたしたちの生活に欠かせなくなっていますが、これはもう年寄りには理解できない世界になってきています。
 そして、これが世の中を動かしている。いま中東で起きている独裁政権を倒しているのは、フェイスブックといわれるソーシャルネットワークがはじまりでした。
 しかし、歳をとってくると、こういうことにだんだん参加できなくなってきています。
 わたしは、ツイッターもしていますし、ミクシーもやっていますが、先日娘から、娘の友人に、お父さんがツイッターをしているんだね、すごいねといわれたと報告されましたが、ツイッターまでやっている人はまだまだ少ないんですね。
 パソコンを使った仕組みは確かに、わたしたちの想像を超えていっていますが、わたしたち老人(自分ではそうは思っていませんが)はもういちど声を出さなければいけないのではないでしょうか。
 というのも、これからは成長にも確実に限界が見えてきています。わたしたちが、高度経済成長をつくってきたのですが、今度は成長に代わる尺度といいますが、成長とは別の価値観が求められています。
 別の価値観をつくり上げるには、いままでの経験や知識が重要になります。
 価値観というと、ものすごいもののように思われますが、たとえば、「ありがとうをいう」ことであったり、人生の機微を伝えることであったり、身近なことでいいのです。
 ここから、新しい時代がはじまっていくような気がします。
『養生訓』から、いまの老人の生き方がしっかり学べます。