いましなければならないこと

「ボーっと生きているんじゃねーよ」という過激な言葉(?)で、大人たちをたしなめる5歳の女の子がテレビで話題になっています。
番組の中の話ですが、いわれてみると確かに、ということも多く、わたし自身も思わず反省してしまいます。
ところで、わたしもそのひとりでしたが、なんとなく長生きできると思っていました。
格別に運動するわけでもなく、食べたいものを食べていても、心配ごとさえなければ、たぶん長生きできると。
果たしてそうでしょうか。
先日亡くなられた樹木希林さんが生前インタビューなどで話された言葉が話題になっています。
「皆さん、果てしなく生きると思っているでしょ
いまいつ何があってもおかしくない。畳の上で死ねたら上出来」
これは希林さんががんを患っていたから、出てきた言葉と思われます。
いつ死ぬか、それはわからない。でも、それは希林さんにとってそんなに遠い話ではない。
今年のように災害が多いと、いつ不幸が訪れるかはわかりません。
畳の上で死ねたら、という言葉もうなづけます。みなさん、備えは十分ですか。
同じく、「がんがなかったら、わたし自身つまらなく生きて死んでいたでしょう」
という言葉にも継がっていきます。
それはがんという病気になって、わかったことのひとつでしょう。
定められた命の大切さを実感します。
人は生まれ、死んでいきます。
これが、この世でいちばん確かなことは死ぬことです。
それを忘れさせてくれるくらい、医学が進歩し、寿命も延びてきました。
しかし、死を忘れてはいけません。
そこで、みずからの最期を考えておきましょう。エンディングノートのようなものを書いておく。できれば、そのときの準備をしておくこと。
もうひとつしておきたいのは、若い人に、みずからの経験を伝えること。
経験しなければ、身につかなったことが必ずあるはずです。
少し過去を振り返ってみましょう。
長く生きていれば、忘れることのできない経験があるでしょう。
伝えることを伝承といいますが、それは人間にしかできないことと、類人猿を研究している先生から聞いたことがあります。
それをしっかり伝えておきましょう。多少嫌がられても。
八ヶ岳ジャーナル10月1日号より

不健全な肉体 2

健全な肉体に健全な精神が宿るという「言い伝え」が間違いであると述べました。
健全な精神と健全な肉体の間には、相関関係はないと。
これに対し、ある人から
「健康を害するとネガティブな考えを持つ人もいます」
というコメントいただきました。
これは確かにあります。


わたしも、痛みがあるときは悲観的になります。
この痛みがずっと続くと思うと、生きようという気力がなくなっていきます。
人は、とくに男性は痛みに弱いといわれますが、痛みがつづくのはつらいものです。
とくに夜。眠ろうとしているのに、痛みがはじまり、眠りを邪魔をする。
痛みがうすらぎ、眠れるかなと思っているときに、また痛みが起こる。こうなるとつらさがまします。
痛みに、とらわれ、いっそう眠れなくなります。
こんなとき、痛みをまぎらわすために、ついタブレットを見てしまいます。
ブルーライトが、眠りを阻害するといわれていますが、ほかに方法が見つかりません。
本当に気をまぎらわすためには、楽しいことを思い浮かべる、楽しいことを考えることがいいとわかっているのですが。


痛みというと、わたしは正岡子規の病状を思います。
子規は結核菌が脊椎で繁殖し、寝たきりになります。
痛みも強く、何とかこの痛みをとってくれといっています。
しかし、痛みがあっても、句会をし、作句に励みます。
自らは行くことはできないが、当時の出来事に思いを馳せます。
鶯谷の子規庵を訪れたことがありますが、ここで子規は寝ながら見える映りゆく景色を楽しんだのだなと思いました。
『病状六尺』に、見たことはないが、ちょっと見たいものというものを挙げています。
活動写真、自転車の競争、動物園の獅子および駝鳥、浅草水族館、ビアホール、女剣舞および洋式演劇などなど、数えるにいとまがないとあります。
このくだりは、楽しいものを思い浮かべている子規がうかがえ、とても好きです。



わたしもこうありたいものです。
コメントをくれた人は
「精神は心です。心の使い方次第だと思います」
と述べています。
本当にそう思います。

不健全な肉体

健全な肉体に健全な精神が宿る、といわれます。
しかし、もともとは「人間が神に願うのは、健全な精神と健全な肉体である」というものだそうです。
健康な体、健全な精神を大切にしようという程度でした。
「宿る」という言葉はありません。


健全な精神は健全な肉体に宿るといいだしたのは誰かは知りませんが、
宿るという言葉が入ったおかげで、だいぶ誤った方向に私たちを導かれたような気がします。
そもそも健康でなければ、健全な精神は生まれないということはありません。
健康な体と健全な精神はまったく関係ありません。
私は、腹膜透析をしている第一級の障害者です。さらに、がんにもなり、健康な体の持ち主ではありません。
私の精神が病んでいるとは思っていません。


反対に、こうした障害を抱えたことで、見えてきたことがたくさんあります。
いままで何の疑問も持たなかったのですが、たとえば、いまやどこにでもある自動販売機。
取り出し口がほとんど下のほうにあります。
足が不自由で体を曲げることがむずかしい人にとって取り出すのが一苦労です。
しゃがまずに取り出すことができるものもありますが、まだまだ少ない。


これはほんの一例ですが、障害者の目線で見ると、こうだったらいいのにな、ということが結構あります。
かつてアメリカに介護関連商品の国際見本市を取材に行ったとき、ふだんは座ったままの車椅子が、
必要に応じて座面が上がり、立っている人と同じ状態になるものがありました。
これなら、手の届きにくいものも簡単にとることができます。
また、車椅子のタイヤに、マウンテンバイク用のものがついていて、多少の凸凹は乗り越えられようになっています。
人にやさしい道具類がたくさんありました。障害者が健常者とともに暮らせるように、さまざまなものがたくさんあり、ずいぶん工夫されていると感じました。


日本は、まだまだです。
ところで、体に障害がなくても、人は歳をとります。
年齢を重ねるとは、何らかの形で体が不自由になるということです。
障害と無関係ではいられません。
障害者の目線で、物事を思い、考えることが大切と思っています。

9月1日発行の「八ヶ岳ジャーナル」より

FM八ヶ岳

地元のFM局、FM八ヶ岳で番組を持って、12年目に入りました。
毎週水曜日、45分ほど話しています。途中耳休めに音楽が入ります。流す音楽はおもにジャズ。
第2水曜日はお休みです。
おもに医療・健康情報ですが、原稿を書くことと違い、話は飛んだり、跳ねたりしますが、
自分としては、おもしろく話せている(?)と思っています。

このブログを読んでくださる方々には、地域の話で申し訳(?)なかったのですが、
この度、この放送をインターネットで聞くことができるようになりました。

http://www.yatsugatake.ne.jp/

上記をクリックして、インターネットサイマルラジオでFM八ヶ岳をクリックすれば聴くことができます。
本日のわたしの放送は
9時15分
11時
19時の三回ありますので、お時間の合うときにお聞きください。

痛み止めを使う

下腹部の痛み止めをもらいに病院に行った。
この痛み止めは、腎不全の人によく使われるもので、胃腸障害を起こさない。
授乳している人、小児にも使われるもので、副作用が少ない。
痛み止めは、あまり積極的にはとりたくないが、この薬はそれほど大きな問題がないようだ。
腎臓に負担をかけることはほとんどなく、透析をしている人にも使える。


痛み止めは、かなり強力なものもあり、それなりに副作用もある。
わたしのような腎不全の患者には、使えないものが結構ある。
安心して使えると知っていても、やはり躊躇があった。
しかし、痛みは日常生活を著しく阻害する。
何より気力が衰える。
そこで、少し積極的に使うようにした。
痛みが起こったときに、頓服的に使っていたのだが、食後服用することにした。
痛みはずいぶん軽減された。


ところで、この痛みの原因だが、がんの手術によるものではないと思われる。
がんの摘出手術を受けた後、一か月ぐらいたったころだが、ほんの小旅行をしている。
孫のお宮参りを兼ねて、一泊で鎌倉に行ったのだが、そのときはまったく痛みはなかった。
夕食に少しお酒も飲んでいる。


再発が疑われ、放射線治療を受けたが、直接の副作用である排尿痛などはなくなったが、
透析液をためる腹膜に障害を起こした可能性がある。
痛みは、放射治療後に起きている。
放射線による障害が完全に回復するまで、人によって半年以上かかるという。
わたしの場合は、それかもしれない。
放射線治療だけなら、痛みという問題は起こらなかったと思われる。
毎日透析を2回入れるので、それは回復を遅らせているのかもしれない。
時間がいずれ解決してくれるだろう。
いまは痛み止めを使って、快適に過ごすようにしたい。
わたしが使っている痛み止めはカロナールである。

まあ、まあ、です

腹膜透析をはじめる前の検査で、鼠経ヘルニアがあると指摘されていましたが、
透析を阻害するほどではないということではじめました。
はじめたころはまったく痛みもなく、よかったのですが、
がんの手術を受け、さらに再発が疑われ、放射線治療も受けました。
その後、放射線治療の直接の副作用である排尿痛などがなくなったのですが、
鼠径部に痛みを覚えるようになりました。


鼠経ヘルニアは、腸の一部に脱出してしまうことですが、
わたしの場合はそこまでいっていません。
しかし、透析液の一部が下腹部から少し流れ出し、
それが鼠径部にたまり、痛みの原因になっていると思われます。
外科手術や放射線治療によって、腹膜が傷つけられたこともあるでしょうし、
腹膜自体がもともと少し薄いといわれていました。
腹膜に小さな穴が開いていてそこから漏れることもあるようです。


透析を1日に朝と夕の2回行っているのですが、
夕方透析をした後、夜寝ている間は痛みがありません。
日中活動しているときに痛みがあります。
少し長い時間歩くと痛みが起こり、腰を下ろし、さらに足を上げたくなります。
ソファについているオットマンのようなものがあるといいのですが。
家にはあります。

そんなわけで、わたしの状態を知っている友人から、
「どうですか」
と尋ねられますが、
「まあ、まあ、です」
と答えます。
まあ、まあ、の状態ですね。

命とは

命とは、何か。
こんなことを考えたのも、がんのおかげか。


放射線治療による副作用、排尿痛がなくなり、
さらに内視鏡、CT、MRI検査の結果、がんは見つからず、
経過観察となったのだが、治るものもあるけど、徐々に進行していくものもある。
放射線治療による副作用はなくなったが、がんそのものはなくなったわけではない。
からだのどこかに潜んでいるのかもしれない。
がんというものは、そういうものだし、治ったとなかなかいえない。
「経過観察とは」はよくいったものだ。なるほどと思う。


そんな状態だからこそ、命とは何だろう、と考えてしまう。
「からだは、命の乗りもの」
という考え方がある。
からだは、老化という道を進んでいく。
若いときは、そんなことは思いもしなかった。
無理もできた。仕事がら徹夜をすることもしばしば、泥酔するまで飲んだこともある。
そんなことはできなくなり、遠い昔の話になった。
そして、病を得た。
腎臓が動かなくなり、透析をしている。完全に機能を失ったわけではないが、これも元には戻らない。
乗りものが痛んできている。


ところで、分子生物学の観点からすると、細胞も分子レベルで観察すると、
三日ぐらいで入れ替わっているのだという。
老化とは、分子の入れ替わりがうまくいかなくなることか。
がんは、その典型である。わたしたちの細胞は、同じものに入れ替わるようにできている。
DNAという遺伝子のおかげだが、がんはこのDNAがうまく引き継がれず、がん細胞ができる。
しかし、よく考えてみるとがんも身の内。
からだの一部である。


からだという乗りものは、病を得、老いていき、いずれは朽ち果てていく。
命もともになくなっていくのだろうか。


命は何か。


わたしたちが住んでいる地球は、動植物という命にあふれている。
それらの命はどこに行くのだろうか。