伴走者か伴奏者か

先日、知り合いの精神科医と会った。わたしのFM番組への出演を依頼したのだが、どんな内容にしようかという相談だった。

わたし自身、がんになり、さらに原因不明の痛みに襲われ、精神的にかなり追い込まれていた。

自分では、がんの原因を究明するぐらいのつまりで、調べていけばいくほど、がんは誰にもかかる病気であり、防ぐことはむずかしい。

また、治療法も完全でなく、なくなる可能性も強いことがわかってくる。

ひとつでも光が見えるとホッとするものだが、それがひとつも見えないと、不安が強くなる。

不安が疑心暗鬼を生み、精神的にも追い込まれていく。

そんな状態になったとき、じぶんもいっしょに暮すパートナーも、どうすればいいのかわからなくなってくる。

囚われるとはまさにそのことだった。

精神科の彼は、

「伴走者の視点を持つこと、原因を究明するより、宙ぶらりんの状態かもしれないが、悪くなっていないのなら、それを受け止めること」

という。

伴走者とは、ともに走る人で、「がんばれ」ともいうがそれだけでなく、自らも走っているだけにいまどんな援助が必要かわかってくる。場合によっては同じ楽曲を弾く伴奏者かもしれない。

原因を追究するより、いまの状態を甘んじてもいいから受け入れ、そこから考える。このほうが救われる。

専門家だけによくわかる内容だった。

新しいブログかな

先日来、医療ジャーナリスト蒲谷茂の日記を更新しようと、ブログを書こうとすると、いつものように、記事を書くというコーナーがなくなっている。

どこに更新すればいいのか、まったくわからなくなり、50万以上の読者の方々には申し訳ないが、このブログもいよいよ終了か、と思っていたら、はてなブログ自身が変わるようで、新しいサイトへ、いままでの記事を含め、すべて移行してくれということらしい。

自動的になくなってしまうのは、残念だ。

なんとか新しいブログを書くことができないか、少々苦闘して、ここにたどりついた。

よろしくお願いいたします。

 

改めてことしもよろしく

1月1日発行の八ヶ岳ジャーナルに、以下のようなコラムを書かせていただきました。



あけましておめでとうございます

 
遠くに住む家族も、近くに住む親せきなども集まって、新年を言祝いでいることでしょう。
こうした穏やかな日々が訪れるのも、お正月の楽しみです。
わたしは、1昨年の年末に手術を受け、お正月を病院で迎えるという貴重な経験を昨年はしました。
病院にも新年は訪れますから、看護師さんから「あけましておめでとう」といわれます。ふつうは「今年もよろしく」となるわけですから、病院では「今年もよろしく」とはいいたくありません。「うーん、そうですね」といって、笑い合いました。
患者と看護師さんの関係は、かなり密なものがあります。お互いに病と闘うという共通の目的がありますし、それだけなくいたわりという感情が流れているからです。そこには信頼もあります。
人間関係が疎遠になっているとよく聞きます。知らない人には挨拶をしないほうがいいとわれるくらい。挨拶はすべてはじまりですから、挨拶こそ大切と思っているのですが。
ところで、あなたにとって密なる関係者はどなたですか。
家族と答える人が多いでしょう。
パートナーだったり、子どもたちだったり、父や母だったり。もちろん友人もいるでしょう。
お正月は密なる人々との再会でもあります。
わたしは、密なる関係はたいへん重要だと思っています。人間関係の基本になりますから。
そこで、この機に親子、夫婦、友人たちといまに何を考えているのかを話し合ってみましょう。
親子なら、親たちはこれから先をどう考えているのか、子どもたちはそれをどう思っているのか、それこそ腹を割って話してください。
そこで話し合ったことには結論が出ないかもしれません。結論が出なくてもいいのです。いや出ないほうがいいかもしれません。
話し合うということが大事だからです。
お正月は、話し合いのいい機会です。
 親たちもこれからの老い逝く先のことを話してみましょう。子どもたちがそれをどのように受け止めるかはわかりません。
密なる関係だからこそ、お互いに忌憚のない意見を交わすことができるはずです。多少の甘えがあってもかまいません。何しろ話し合う。
くり返しますが、お正月はいい機会です。


以上全文です。
お正月というと、わたしが必ず思い出すことがあります。
お年玉をもらいに、叔父の家に行くと、叔父はお年玉を渡しながら
「正月や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり、めでたくもなし」
といいました。
室町時代の僧侶、一休宗純がいった言葉だそうです。
昔は、1月1日を迎えると、年齢に関係なく、一歳歳をとりました。
それだけ、死に近づいているわけですから、冥土の旅の一里塚という言葉にも納得がいきます。


そんなことを思い出しながら書いたのですが、お読みになった方もおられると思いますが、
付け加えておきます。


改めまして今年もよろしくお願いいたします。

とらわれる

病気に対して、前向きになろう。
病気に負けていないか。


そんなことをかみさんからいわれている。
確かに、前向きでない自分がいるし、病気に負けているような気もする。


健康なときは、自分のからだは自分の自由になると思っている。
食事や運動に注意すれば、健康は保てるはずだが、それでも病はやってくるだが。


その病は、まず自分の力ではどうにもならない。
手術で切り取ったり、薬で克服したり、自分以外の力が必要になる。
それでも、病がコントールできれば、一時的でも健全なからだを取り戻すことができれば、その病と折り合いをつけることができる。


ところが、そんな簡単にはいかない病もある。
はじめて経験する痛み、不快感、食欲不振など、自分ではどうしようもないことに遭遇する。
そういう状態になると、病気に対して前向きになる、病気に負けないと心構えを維持することがむずかしい。
病気にとらわれてしまう。


とらわれるという言葉を調べていくと、「囚われる」という漢字に出くわす。
クニガマエの中に人、そう、囚人である。
この漢字を見ていると、ワクの中で闘っているのはひとり、そして、他者とのつながりも切断されている。
自分ひとりが大変な目にあっていると感じに陥ってしまう。


しかし、よく考えてみれば、ひとりで生きているわけではない。
そのことを思い知る日々である。
囚われの状態から、少しでも逃れられるように、つながりを大切にしたい。

誰もが悩むのでは

自らのからだの状態(QOL)に合わせて治療を選択したいと述べました。
現在、わたし自身のQOLで問題なのは、なんといっても痛みです。
原因がはっきりわからないので、痛みを伝える神経に作用する薬を使っています。そこで、主治医と相談して、痛みをできるだけとるために、もう少し強い痛み止めを使ってみようということになりました。
腎臓の障害があるので、あまり強い痛み止めは使えなかったのですが、今度の薬の効果はすぐに現れ、痛みはずいぶん改善されました。
しかし、強い薬だけに副作用もあります。それが便秘です。
じつは、いままで便秘に悩まされたことはほとんどありません。
痔の手術を受けたときに、排便するのが怖くなり、便秘になってしまいました。このときは、すぐに痔の専門医が処置してくれ、すっきりしました。
痔の専門医に、トイレで便座に座ったら、スッと出てくるのが理想です。力まないように、といわれてきました。
その後はまさにそんな感じで、快便がつづいていたのですが、痛み止めを変えてから、便意もとぼしく、力んでも出ません。
あらかじめ副作用として便秘があることはわかっていたので、便秘薬も飲んでいたのですが、それでは効果がなかったのです。
便秘の経験がないだけに、いっそう苦しくて、主治医に相談しました。一度診ましょうといわれ、定期健診以外で初めて診察を受けました。
お腹をさわったり、聴診器を当てたりして、腸の働きが落ちているとわかり、別の便秘薬を処方してくれました。
便秘はQOLを害するだけでなく、脳梗塞を起こすこともあり、放っておいてはいけません。
ところが、日本の便秘治療は非常に後れを取っていました。2017年にようやく慢性便秘症のガイドラインもでき、新薬も次々と登場してきています。
わたしが服用しはじめたのもそのひとつ。
便秘に悩んでいる高齢者はたいへん多いと聞きます。一度医師に相談してみることをお勧めします。
ちなみに排便するときは、背中を伸ばして前かがみに座ったり、足を足台に乗せて高くするといいそうです。太ももと胴体の角度を90度未満すること。
わたしはスッと出るというところまではいきませんが、徐々に改善されつつあります。(12月1日発行八ヶ岳ジャーナル)

ここまでは、八ヶ岳ジャーナルの記事ですが、この後日談があります。後日というより、原稿を書き終わったころから、ひどい便秘になり、4日間も排便がなくなったのです。
述べたように、便秘の経験がありません。経験者なら、4日や5日は排便なくてもそれほど心配はしないのでしょうが、未経験者にはつらいものです。
肛門の出口まで便はきているのに、そこで塊になって通過しません。無理に出そうとすると強い痛みが起こります。痛みで、便意がなくなり、排便ができないという状態です。これを1日に何度もくり返しました。
自力で排便することができない、なんとかしてほしい。
これは、お医者さんや看護師さんに頼むしかない。友人のケアマネジャーに相談して、在宅医療を行っている近くの診療所を訪ねました。以前在宅医療の訪問看護師をしている知人から「摘便」は重要な仕事といっていたのを思い出し、在宅医療をしている診療所なら、してもらえると思ったからです。
診療所の先生は、講演会などで知っていたのですが、診療を受けるのははじめてです。検査データやお薬手帳を見せ、腹膜透析をしていることも含め、病状をくわしく説明しました。
診察以外にトイレがついている個室があり、そこで看護師さんに診てもらいました。
まず浣腸。液体を入れ、しばらく我慢してトイレに行って、力みます。これで便が出ればいいのですが、出ない場合、肛門に指を入れ、便を柔らかくして、掻き出します。これが摘便なのですが、ふだんあまり人には見せないところですから、恥ずかしさもあります。それにあまり気持ちのいいものではありません。
でも、便秘の苦しみを早く解消してもらいたい。
看護師さんに身をゆだねました。少しオーバーですが、そんな感じです。
何回かのトライの結果、固まっていた便が出て、便秘は解消されました
。家に帰っても排便があり、すっきりしました。
痛み止めには効果がありますが、副作用もつらいものでした。
痛みの次は便秘との闘いですかね。

QOLも自分で

QOLという言葉を聞いたことがあるでしょう。
クオリティー・オブ・ライフの略です。
「人生の質」という意味になりますが、これではよくわかりません。
医学的には、患者さんの人生をどのように考えるかということです。
だいぶ昔の話になりますが、わたしが高校生の頃、友人が心臓病になり、当時最も進んでいるという手術を受けました。
手術は成功しましたが、友人は亡くなりました。
そのとき医師は、「彼には生きる力がなかった」といいました。
治療が中心で患者のことを考えるのは二の次でした。
しかも、いまと違って、患者が医師を訴えるというようなことはまったく考えられません。
なぜ亡くなるように事態になったのかを知らされることもなく、患者は黙っているしかありませんでした。いまから50年以上も前の話です。
時代が変わり、医療も治すだけが目的ではなく、支えることが重要だといわれてきています。
たとえば、患者が毎日を快適に過ごせない状態とは、痛みがある、眠れない、便秘で苦しい、かゆみがあるといった症状もあります。
これには、痛み止め、睡眠剤、便秘薬、かゆみどめなどの解消法がありますが、不安感がある、いいようのない倦怠感がある、しびれがあるといった、症状とはいえないものもあります。
医療として、残念ながら対応できないものもあります。
原因がわかれば対処の方法もありますが、見つからなければ、そうした症状と折り合っていくしかありません。
なんとか折り合って日常を送っていくことになります。
いい状態とはいえないかもしれませんが、QOLは保たれています。病気とはそうしたものです。
ところで、病状が進行して行くと、新たな治療が提案されます。
がんなどの場合、第一選択が手術だとすると、放射線治療抗がん剤治療が次の治療として提案されます。放射線治療にも副作用はありますが、わたしが受けたものでいえば、それほどのことはありせんでした。
抗がん剤はどうでしょう。
ご存じのように、抗がん剤はがん細胞だけでなく、正常な細胞の働きを阻害します。
QOLを著しく損なう恐れがあります。
もちろん、防ぐ方法がありますが、感染症にかかりやすくなる、吐き気、嘔吐、下痢、便秘などなど、日常生活を送るうえで障害となることがたくさんあります。
抗がん剤の効果を否定するわけではありません。
しかし、自分のQOLを重視すれば、抗がん剤を進んで受けようという気にはなかなかなりません。
いま治療法を患者は選択する時代になりました。
こうした患者の気持ちを汲んでくれ、素直に話し合える関係が大切になります。

闘う医療と寄り添う医療

テレビの再放送の『ドクターX』で、アメリカの女性外科医がかつて研修できていた日本人の外科医を訪ねてくるという内容のものがあった。
その女性外科医は非常に優秀だったのだが、手術中に手がふるえ、患者の命を危険にさらし、訴えられ、医師としての自信を失い、日本にやってきた。
しかし、それには原因があり、脳腫瘍ができていて、脳の運動野が侵されていたからである。
運動野を傷つけずに、手術を行うことはたいへんむずかしく、本人もあきらめていた。
亡くなるまでの3ヵ月を日本でかつての恋人と過ごしたいとやってきたのである。
恋人も外科医で、その手術が困難であることを知り、彼女とともに過ごそうと決意する。
しかし、ドクターXは、彼女の脳の画像を何度も確認し、運動野を傷つけずに、手術ができると主張する。
患者と寄り添うのが医師ではない、患者を治すのが医師だと叫ぶ。
恋人である外科医も、ドクターXならできるかもしれないと、彼女に治療を勧める。
この番組を見ていて、感じたのは、ドクターXは「闘う医療」を真髄としている。
その根拠となるのは、「わたし,失敗しないので」という自信が裏付けになっている。どんな困難な手術でもやり遂げてきたという強い自信と経験。それが、「闘う医療」を支えている。
「わたし、失敗しないので」という自信がなければ、闘う医療を邁進することはむずかしい。
ちなみに、失敗しないのは、準備を怠らないからだ。手術の場面で「術式を変更するということがよく行われる」が、それはあらゆる状況を想定して、さまざまな手術法を研究している証拠である。もちろんテクニックがなければならないが。
医療が進歩を遂げ、治せる病気もふえてきた。しかし、治せない病気はまだまだ多くある。
わたしは、腎臓病といわれ、20年あまりたつ。腎臓の機能がほとんどと機能しなくなり、現在は腹膜透析中。これまで、4人の主治医に診てもらってきた。
そのうちのふたりの医師は、わたしの病状を診て「治せることができなくて申し訳ないです」といわれた。
「治せない」といわれ、わたしは医師への信頼を強くもった。つまり、闘うことはできないが「寄り添っていきます」という意思表示と思った。
何でも治せるわけではない、医学がまだまだ進歩していない、ということを、医師自らが口にすることにわたしは信頼を寄せる。
腎臓病、糖尿病など、いまの医療をもってしても治せない病気にとって必要なのは「闘う医療」ではなく、「寄り添う医療」ではないだろうか。寄り添うとは、患者と同じ目線を持つこと 。
そして「寄り添う医療」が、いちばん必要と思われるのは老化に対してである。
老化は、誰にも防ぐことはできない。
医療スタッフに患者とともに歩んでいく気持ちが見られるとほっとする。
老化と闘ってはいけないと思う。老化を受け入れ、共存しながら、楽しく生きる方法を探る。
いまわたしは、闘う医療ではなく、寄り添う医療を支持する。